栗落した

マダミスの感想や雑記blog

何者にもなれないGM

はてブロへ移行するための過去の自分のnoteからの転載記事になります)


PLとして未通過のマダミスのGMをしたことで生まれた気持ち。
特定のマダミスのネタバレはなし。

 

 

GMはPLと話せない : 当事者≠目撃者


私が初めてGMをしたのはPL通過済みの『アンノウン』という作品で、以降はPL未経験で『夢ノ棺ノ時間ドロボウ』や『宇宙船ニル・ノート号の残響』のGMをしています。

 

そこから私は避けられない空虚感を手にし続けることになりました。

 

GMは準備のために地の文を読み上げたりHOを読んだりと物語に触れる回数が多くなります。それにより物語や登場人物への気づきや思いが増えていきます。
しかしGMがいくら思いを積み重ねたところで、物語の中では何のキャラクターでもありません。進行役かつ単なる目撃者です。

 

対して、PLはキャラクターのHOを受け取り、HOの先にあるキャラクターの生き方・物語を作り出すことができます。当事者としての生の感情を積み重ねていくことができます。

 

そんなPLが世界やキャラクターを生の体験として語るのは自然なことですが、ただの目撃者であるGMがその輪に入るのは難しいのです。
物語世界への関与度に違いがありすぎて、PLへ共感や同調はできても自己発信するのは憚られます。

 

「このハンドアウトのこの部分が好き」といった感想がGMにもありますが、それは当事者と違っていつ発生したのかわからない製造日不明の感情なのですから。

 

シナリオ大好きなのに当事者として一生話すことのできない、PLとの大きな壁は空虚感として残り続けました。

 

GMの自己表現の調節

GMは進行役なので没個性であることが求められますが、一定のシナリオでは個性と解釈を発揮できる場面があります。

それがNPCの台詞表現・地の文読み上げ・自由エンディングの展開でしょう。この自己表現がPLのゲーム体験や物語への没入感に大きく関わります。

GMがどのような感情や意図を込めて表現するかは、そのシナリオへの個人的な解釈がベースにあります。


しかし、PL全員に公平かつ様々な解釈の余地を残すためには個人的な解釈をどこまで表現するか機微なバランスを要求されます。

中立性と個性的な解釈を混ぜ合わせた際の黄金比はあるのでしょうか。その不自由さの中で生まれたNPCとは、果たして何者なのでしょうか。

 

GMの気持ちと表現の黄金比

あまりにもGMの個人的な解釈を前面に出しすぎると、PLが物語に没入することが難しくなったり、物語の受け取り方が偏ったりする可能性があります。

結局のところ、GMは自己表現の黄金比を模索し続ける必要があるということでしょう。没個性と個性の間で絶えずバランスを取り続ける弥次郎兵衛になるしかないみたいです。