栗落した

マダミスの感想や雑記blog

オタッキーな話し方をしたくない話

 

はてブロに移行するための過去の自分のnoteからの転載記事になります)

2022/10/10 iPhoneメモより。一部加筆修正した

自分の話し方がオタッキーになっていると最近気がついて悩み始めた。また、幼稚に聞こえる言葉を使うところも悩み始めた。
いまはオタッキーな話し方とはなにか、なぜ嫌かを考えようと思う。

他人がどう話そうとわたしは気にしないし、なにかを批難したい訳ではないということを前提に読んで欲しい。
しかし忌憚なく書いたため、既にオタクを擁護する気概のある人は見ないで欲しい。

 

オタッキーな話し方とは

私の思うオタッキーな話し方(表現)がなにかというところからまとめる。

  1. 極端な表現
    例を複数あげると「〇〇過ぎて泣いた」「実質無料」「全人類〇〇すべき」「控えめに言って〇〇」。対象の好悪の程度を形容の程度で表現する。これはどのジャンル(ここで「界隈」と表現するとオタッキーである)のオタクにも共通して散見する。
    オタクというより最近のSNS上のマーケティングの流行に影響されているところはありそうだ。コンテンツが即席的に大量消費される現代の生存戦略として誇大表現に逢着しているのかもしれない。

  2. 婉曲的な表現
    具体例は前述の「界隈」や「バ美肉(バーチャル美少女受肉)」。他の言葉で表現可能なこと(もしくは既成語がある)を敢えて難解な言葉や略語で表現しているという感じだ。例えば「V化(VTuber化)する」でもよいのにわざわざ「バ美肉」が用いられるのはオタクならではと感じる。
    造語や略語が生まれるのは同じ共同体のコミュニケーション時間の短縮や、オタクや会話自体の隠匿(所謂検索避け)が目的にあるはずだがこれらはそこから少し逸脱している気がする。
    オタッキー言語には同じオタク共同体に帰属していることの発信的な役割もあると思う。そうなるとオタク同士にしかわかり得ない共通言語にするため、より難解に奇天烈にとややこしい表現にする傾向もわかる。

嫌悪感の源泉


これらのなにに嫌悪感があるか。
知人と話していて納得したのが「上手いことを言おうとしている感」。実際に上手いかどうかはさておき。それも包含する嫌悪感の源泉はオタク言語を用いる共同体そのものの性質にあると思う。
オタク文化にある奇天烈な表現や言動に価値があるという観念。現実社会では秩序を乱すようなイカれていることに価値がある。物をコレクションし、金を消費し、定量的で異常な実績が評価される。だからオタクはゲームやCDや物の多さをアピールする。可視的な異常性が評価されるのだ。そのため言語においても奇天烈さが必要とされるのだろう。
そのためこの奇天烈さを評価・使用できないと共同体からは疎外される。「理解(わか)っていないのか」と。閉鎖的で規範意識が高い。
この妙な共同体に所属していることを発信するオタッキー言語が嫌なのだ。

また、オタッキー言語への嫌悪感はオタク=根暗で気持ち悪いというベースがあるため、オタクそのものの嫌悪感からきているという考え方もあるようだ。話し方と人格がリンクしているという価値観が根底にある気がする。「デュフw」から非社会的な人格が垣間見えるというような。私からするとアナクロニズムのように見える。
ただこの考えと同じくするのは、オタッキー言語そのものに嫌悪感があるのではなく、嫌悪感の源泉は別にあると考えているところだと思う。

まとめ

わたしは意識的にオタッキー言語を避けている。共通言語の役割は重々承知しているので、敢えて使うことももちろんある。郷に入っては郷に従えの実践。その時は「赤信号を渡っている」と自身で強く思う。

しかしこういった表現を見聞きし使用することが多いと、無意識のうちに内面化されてるのではないだろうか。その恐怖がふとした時に思い出される。
オタク共同体への帰属の拒絶があるのは、複数の共同体に所属しており孤独の心配がないからこそかもしれない。

もしくは奇天烈なことを言わない自分こそが奇天烈で素晴らしいと思っているのかもしれない。